タイムリーな時期を過ぎたので、それについての所感を書きます。
まず、大前提として、非常に哀しい出来事であったことは言うまでもありません。
被害に合われた方のご冥福をお祈りします。
でも、同時に、こうも思ってしまった。
羨ましい・・・。
不謹慎かもしれないですが、
事故の概況を知るにつれてこんな感情が沸き起こってきました。
最近、通勤途中やオフの時間に一人で街を歩いている時、
私はあることを習慣付けている。
横断歩道で絶対に車に道を譲らないことだ。
信号が青のうちは、車がやってきていても絶対に立ち止まらないことにしている。
横断歩道は歩行者優先。
なので、右折車(左折車も)は、基本的に歩行者の通行を妨げてはならない。
歩行者は車が居ようが居まいが、何も気にせずに通行してよい。
もし、車とはねられるようなことがあれば、それは全て自動車側の責任なのだから。
もちろん、これは詭弁だ。
大いなる詭弁。
実際には、その時の状況により歩行者が譲るべき時もある。
でも、今の私は絶対に譲らない。
むしろ車に轢かれたいとさえ思う。
自ら命を絶つのは怖い。
しがらみもたくさんあって、とてもじゃないができやしない。
でも、外的な要因(例えば、交通事故)でそれが行われるとしたらどうだろう。
外的な何かが強制的に自分自身を終わらせてくれるのなら、
それはそれはとても素晴らしいことではないか。
憧れさえもする。
自殺願望は、誰でも持っていると思う。程度の大小はあれど。
死への憧れといった方が正確かもしれない。
数年前に、僕の同級生は自宅駐車場のガレージで首をつり、自ら命を絶った。
何が彼にそうさせたのかは未だに不明だが、
それでも僕はその行為を100%否定はできなかった。
その当時から、死への憧れがあったからだと思う。
自ら自分自身に終止符を打つのには、ブレーキがかかる。
ものすごくかかる。
人間の生存本能が歯止めをかけているのだろう。
よっぽどのことがない限り、そのブレーキを外すことはできない。
でも、終止符を打つことを外部がやってくれたら。
不意打ちに突然にやってくる、死の匂い。
一瞬でマックスまで達する恐怖。
目の前に突っ込んでくるトラック。
その場で硬直する肉体。
ぱちん。スイッチオフ。
暗闇。
まるでパソコンの電源を切るように、
その瞬間にすべてのことが終わりにできたら。
誰かが「強制終了」してくれたら。
尼崎の脱線事故を羨ましいと思ってしまったのは、
たぶんここから来ているのだろう。
生きなければ。
とにかくそう思う。
でも、これが、生かされているのだとしたら?
わずかに見えている光の種さえ、どんどんどんどん摘み取られていくこの社会。
報われないシステム。
ここ数年、明確な希望というのを示されたことはあっただろうか。
僕が僕であるために、勝ち続けなくてはならない。
でも私には、その「僕自身」がハナから存在しない。
僕が僕に”なる”ために、勝ち続けなければならないのだろうか。
この先も光はない。
たぶん、そんな気さえする。
それでも、生きなければ。
例え、生かされているのだとしても。

